【剣南詩稿 0001】
別曾學士   


兒時聞公名 謂在千載前
稍長誦公文 雜之韓杜編
夜輒夢見公 皎若月在天
起坐三歎息 欲見亡繇縁
忽聞高軒過 驩喜忘食眠
袖書拜轅下 此意私自憐
道若九達衢 小智妄鑿穿
所願瞻徳容 頑固或少痊
公不謂狂疎 屈體與周旋
騎氣動原隰 霜日明山川
匏繋不得從 瞻望抱悁悁
畫石或十日 刻楮有三年
賎貧未即死 聞道期華顛
他時得公心 敢不知所傳



禹廟 杜甫
禹廟空山裡秋風落日斜荒庭垂橘柚古屋
畫龍蛇雲氣生虛壁江聲走白沙早知乘四
載疏鑿控三巴

禹廟空山裡  禹廟空山の裡
秋風落日斜  秋風落日斜めなり
荒庭垂橘柚  荒庭橘柚垂れ
古屋畫龍蛇  古屋龍蛇畫く
雲氣生虛壁  雲気虚壁に生じ
江聲走白沙  江声白沙に走る
早知乘四載  早に知る四載に乗じ
疏鑿控三巴  疏鑿して三巴を控くを

天地を改造した禹の神話上の事績を讃えて作られた禹廟は各地にあったらしい。
杜甫の旅中の詩群のどこに位置するか、つまり旅行時期と場所については問わない。
長江の流れるあたり、三巴どこかの廟だ。


五言律詩だと思う。これも子細な検討は省く。
律詩だから対句が有るのは勿論だが、それも関心の外にある。


  ひと気ない山の裡にある禹廟 は
  夕暮れて秋の日が斜めに照らしているだけだ。

  手入れされない庭に橘や柚子が実って枝を垂れ、
  古ぼけた屋内に恐ろしげな龍蛇が画かれている。

  切り立った岸壁の岩蔭に雲気がたち、
  見下ろすと白砂の岸辺を江は音高く流れていく。

  知ってはいたのだが、これ程とは…
  禹が四種の乗りもの使って縦横に地を疏鑿して、
  水を三巴に控いたことは知ってはいたが。



橘柚と龍蛇が禹の神話性を象徴しているのだろう。
禹歩というのは舞踏におけるステップのひとつだが、それは禹が蛇体・龍形であることからきている。
禹廟に龍蛇が画かれていたのはこれによる。橘柚は南方の果実だが、また神仙境の仙果ともされる。

日本書紀には田道間守が非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)探し出してもたらした伝説があるが、書紀では今の橘がこれだと注している。編纂当時に橘が仙果という知識が有った証左だろう。

雲気生ずは白雲が仙境を隠すということにつながるし、虚壁は絶壁を指すと思われるので絶壁が雲を吐いている風情か。

雲気生じ江声走るという描写のダイナミックをもって先行句をまとめている。

終聯は再び神話的伝説へと自然体を送り返して終わる。

禹域に生きる人間としての感激があると思う。

旅宿 杜牧



153 杜牧 旅宿 旅館無良伴凝情自悄然寒燈思舊事斷雁警愁眠遠夢歸侵曉家書到隔年滄江好煙月門繋釣魚船



40字。 5で割り切れて商は8。
8行なので多分五言律詩だろう。



旅館無良伴  旅館・無良伴 
凝情自悄然  
凝情・自悄然
寒燈思舊事  寒燈・思舊事 
斷雁警愁眠  
斷雁・警愁眠 
遠夢歸侵曉  遠夢歸・侵曉
家書到隔年  家書到・隔年
滄江好煙月  滄江・好煙月 
門繋釣魚船  門繋・釣魚船


旅館 良伴無く 
凝情 自ら悄然
寒燈 舊事を思い 
斷雁 愁眠を警ます 
遠夢歸って 曉を侵し
家書到るに 年を隔つ
滄江 煙月好し 
門に繋ぐ 釣魚の船 


最期の二句で思いを籠めて締めくくるかたち。
2.3.4.5の4句で、寒灯を見、雁声を聞き、遠い望郷の夢ははかなく、家からの手紙は思うに任せないというわが身を描く。


良伴 : 気さくな伴(つれ)

凝情 : 鬱屈たる思い
悄然 : 憂え悲しむ状態で

寒燈 : 旅館のもの寂しい燈し。寒さだけでなく「寒山」の類、人気の無さを暗示。
断雁 : 断は「と切れた」の意味で伴侶とはぐれた雁。眠りを警(さ)ますのだから雁声。
警  : 警は驚に同じ。愁眠を驚かす。目を覚まされるの意。
隔年 : 年があらたになってやっと、年を越えて
滄江 : 
滄々(あおあお)している江、水の青さを滄という

目加田誠氏の訳がとても気に入っているので引用したい。

旅館に泊まって伴(つれ)も無く
心はむすぼれて愁いにしずむ
寒々した燈火に過ぎし日を思い
群れを離れた雁(かりがね)の鳴く声に
いねがての眠りをさます
ふるさとを夢みつつ早くも暁
家びとのたよりはおそく
年を越えてわずかに到る
滄茫たる大江の
もやにかすむ月の好(よ)さよ
門辺(かどべ)につなぐ漁り舟一つ  「目加田誠 訳」

【解釈】

永い孤独な旅の途上なのである

投宿したとて宿に気さくに話し合える友もいない
旅愁はつのるばかりだが為す術もない
寒々とした燈火のともる暮れ方思うのは過ぎし日々のこと
聞こえてくる離れ雁の仲間を呼ぶ声が浅い眠りの枕辺にとどく
遠い故郷の夢を見ていたのだが覚めてみればはや暁に近い
家人のたよりもおくれがちな遠さが身に染みる
そんな中でも
こころを慰めてくれるのは眺めやる景色
もやを通して観る月のまどかさ
水辺の門のあたりに
繋いである漁り舟の佇まい

一幅の画を見ているような情景が浮かんでくる詩である。







題京中早春



仕事が一段落ついたので、
二つ目の漢詩を作ってみました。
出来上がってほっとしたばかり。
まだ反省点も頭に浮かばない。
詩の友が瑞と祥を用いた詩を作って
わたしには祝賀に思えたので
同様のことを考えたのです。
でも超初心者がするべきことではなかった。
焦点がはっきりしない詩になってしまった。 

題京中早春   田 瑞生 
雪中松柏一齋開  仄平平仄仄平平
郁々清香春色催  仄仄平平平仄平
玄酒白川思尚友  平仄平平平仄仄
烹茶詩興数枝梅  平平平仄仄平平

韻字は、開・催・梅。灰韻。 



題京中早春    田 瑞生

雪中松柏一齋開
郁々清香春色催
玄酒白川思尚友
烹茶詩興数枝梅

题京中早春 田瑞生
Tí jīng zhōng zǎochūn   tián ruìshēng
雪中​​松柏一斋开
Xuě zhōng​​sōngbǎi yī zi kāi
郁々清香春色催
Yù yù qīngxiāng chūnsè cuī
玄酒白川思尚友
Xuán jiǔ báichuān sī shàng you
烹茶诗兴数枝梅
Pēngchá shīxìng shù zhī méi


題京中早春    田瑞生

雪中松柏一齋開 雪中松柏  一齋を開けば
郁々清香春色催 郁々たる清香  春色を催す
玄酒白川思尚友 玄酒の白川  尚  友を思う
烹茶詩興数枝梅 茶を烹れば  詩興  数枝の梅

 ・雪中松柏は、白い雪の中の緑の松柏のこと。
  比喩として節を守っている閑居する幽人。
  ・齋は、外舎。へや。書斎をも指している。
一齋開くで新たな書斎の人となったことを示す。
  ・郁々は、「イクイク」で、香気のさかんなさま。文化の薫り高いさま。
うつくしさがあふれるさま。
・清香は、清らかな匂い。いい香り。花有清香より花の存在を暗示する。
・春色は、春容、春のけしき。また酒気で赤くなった顔。
・春色催で、春らしく感じがおきてくるさま。
・玄酒は、水で冬の冷たく昏い水(川)のこと。
冬の水で酒を造ることからきた表現という。
 ・白川は、京中を流れる川。地名でも北白川などがある。
 ・思うは、懐かしくおもう。思案工夫する。ここでは前者。
・尚は、ここでは「いまもなお」「それでもなお」の意味で使っている。
・烹茶は、茶を烹(に)る。お茶をたてること。
・詩興は、詩の感興ということ。詩心の発動をいう。またその対象をもいう。

志を失くさず雪中の松柏と思い定め一屋の書斎を設けたが
俗世の塵を余所に志高い文化の香りがたちこめ春が来たかのよう

白川の昏く冷たい川の辺で まだ逢ったことのない友をしみじみ思ひながら
茶をたてていると詩作の気持ちを誘う数枝の梅の花が香りを放っていた


チャレンジしてみた



見様見真似の手さぐりの第一作となった。二四不同、二六対、下三連、孤平の禁など
注意をするのが勉強と気を付けてやってみた。


形式を守って作法と手順を踏むのが主たる作業と思いつつ
結果的に自分の想いを表現する形にはなっているかと自己満足。


旦夕 商賈して常に閑無く
塵埃 市井に紅顔は老ゆ
篁裏の秋風に白髪新たなるも
月華の幽径は南山に至る


朝な夕な商いに閑暇もなく
俗塵の街で紅顔の青年も はや老年
竹林の秋風に靡く白髪がまた増えた
月明かりの静かな帰り道は 我が終南山に続いている


というシーンを詠んだつもり。


旦 夕 商 賈 常 無 閑 ■ ■
塵 埃 市 井 老 紅 顔   
篁 裏 秋 風 新 白 髪 
月 華 幽 径 至 南 山  


あとでプリントアウトして点検し見落としがないか調べるつもり。
でも作詩は大変な神経がいる作業と感じた。


三句目が転句になり切れていない。
白髪というのがよくないと思う。
この句を作りかえれば全体がもっとすっきりまとまるだろう。
でも
今夜はこれで寝ることにしようと思う。



【追記】

上記の作品の誤りと不十分をご指摘によって直したのが下記のもの。訂正前のものも残して教訓としたい。 


旦 夕 賈 人 無 少 閑 ● ● ● ○ ○ ● ○
塵 埃 市 井 老 紅 顔 ○ ○ ● ● ● ○ ○
篁 裏 秋 風 吹 白 髪 ○ ● ○ ○ ○ ● ●
月 華 幽 径 至 南 山 ● ○ ○ ● ● ○ ○

旦夕賈人少しも閑無く
塵埃の市井に紅顔老いたり
篁裏の秋風 白髪を吹いて
月華の幽径 南山に至る




これは結局拗体という捻じれた平仄配置らしいので、これも修正を試みる。











起句と結句、承句と転句の対応 二・四・六の平仄。

旦 夕 賈 人 無 少 閑 ● ● ● ○ ○ ● ○
塵 埃 市 井 老 紅 顔 ○ ○ ● ● ● ○ ○
秋 風 吹 至 弧 村 裏 ○ ○ ● ● ○ ○ ●
難 息 帰 心 一 鳥 還 ● ● ○ ○ ● ● ○

旦夕 賈人 少しも閑無く
塵埃の市井に 紅顔老いたり
秋風 吹き至る 弧村の裏(うち)
帰心 息み難く 一鳥還(かえ)る

朝な夕な ビジネスに閑暇なく

俗人の巷に 青春を見失う
秋天に風が渡る片田舎の村にいるのは
里心がつき飛び帰る鳥となったわたし だ。


新春 真山民


余凍:余寒に同じ。
初晴:新春の晴れた日。
煙:かすみ。けむりではない。
焼:野焼きの痕か。
東風:春風。
衡門:門柱に横木を渡しただけの粗末な門。隠者の家の門。

真山民:南宋の詩人。経歴は詳しくは知られない。

余凍 雪 わずかに乾き
初晴 日 にわかに喧(あたた)かなり。

寒さはまだ残っているが 雪は少なく乾いた地が見え始め
新春は晴れて 日差しは急にあたたかさを感じさせている。

人心 歳月 新たなり
春意 乾坤 旧きにあり。

人の心は歳月とともに 新しくなり
春の兆しが 悠久の天地に現れている。

煙(かすみ)は碧(みどり)にして 柳は色を回(かえ)し
焼(しょう)は青くして 草は魂を返す。

春霞が柳の樹をつつみ 柳に若葉がふいて色づく
野焼きの痕にも草が萌え出て青さがいきいきと戻っている。

東風 厚薄無く
例に随いて衡門に到る

東風(はるかぜ)は厚薄なく
例を随(まも)りて衡門にも到る。


新春を詩に詠むのは予祝の意味合いもあって
それ自体が新春の習慣の一部であった。
書き初めのようなものだ。
しかし、南宋末を生きたこの詩人は
隠者の風情をもって世相を描いた。

対句になっている各聯に対して最後の二句は
二句でひとつの言表になっていて

春風は人の世の険しさとは違って情に厚薄なく訪れる
約束通り通例を守って粗末な門(貧しい家)にもやってきた、と詠う。

東風無厚薄 随例到衡門

今年の年頭に当たって掲げるに相応しい詩聯だろう。

東風は厚薄無かれ 例に随いて衡門にも到れ

被災された全てのひとびとに漏れるところなく
春風の到らんことを。

思君恩  令狐楚


010思君恩  令狐楚

小苑 鶯歌 歇  2 2 1
長門 蝶舞   2 2 1 
眼看 春 又去  2 1 2
翠輦 不 曾  2 1 2  押韻は

小苑  鴬歌(おうか) 歇(や)み 
長門  蝶舞(ちょうぶ) 多し
眼(ま)のあたりに看る 春また去るを
翠輦(すいれん)    曾て過(よ)ぎらず

小苑、長門は漢代の宮廷の情景。
輦は天子を意味する。
車駕と言うのと同じ表現のかたち。

鴬と蝶は春と女性と宮廷の遊楽を含意しているに違いない。
鴬の歌と蝶の舞いは一対のイメージだ。
去と過という字も含蓄の多い使われ方がされていると感じる。

春たけなわには小苑に鳴き競っていた鴬の声が歇んでしまった。
それなのに長門では静けさの中にたくさんの蝶が舞い続ける。
みすみす春はまたも去ってしまった。(失われて戻らないものへの憶い)
そしてここへは
天子)はいちども立ち寄らないままだ。(成就することのないものへの想い)

音声の欠如、或いは終焉。失われる春の奢り。
視覚の過剰。或いは永続。失われた春の残像。
表面にはいのちの爛熟。内奥には死の顕現。

眼看春又去。
春はまたもや目の前で為す術もなく去るのか。そうだ去ったのだ。
「まのあたりに」「みすみす」などと読むにしても、眼と看とをしっかりと受けたい。

去るは自分の位置から離れ去る動きをとらえた言葉だ。
離反を含意できる。
見守っていても去ってしまうという実感を指示しているはずだ。

去りぬと 不曾過(曾て過ぎらず)と
その対比も重要な意味がある。

又は繰り返し、反復を
偶有性と揺らぎを
想起させる作用をもっている。

不(曾過)とは
「曾て過ぎったことなど一度もない」という
不能性、不通性を
不完了で投げ出されている
流れない時間を
そしてそれ故の無主の空間を
想起させている。

此処にあるのは
李商隠にも色濃い独特の時空感覚だ。
退廃とそれを言って差し支えないだろうが
それだけでは済ませないものが潜んでいると感じる。

晩唐の時代精神。知識人のもつ内面の深さが思われる。
そういう物が姿を覗かせているから
単純にこの詩を春怨の詩とか閨怨の詩とすることは
あまりにも単純な理解だというそしりを受けるだろう。
李白などの閨怨詩と比べればすぐに気づくことだから。

君恩を思うという題が内容から逆に規定を受けている感じがある。
当時の牛李の党争の渦中に居た作者を考えれば
又別の暗喩などをも考えてゆくべきなのかも知れないが
それは他の機会にゆずろう。








この詩のような千年たっても変わらない人生の一コマの様子は

静かにこころを温めてくれます。

自分もこんな風に家族を眺め


自分の現在を眺められるようでありたい。




なかなか現実は思うに任せないものですが。

自己流の解釈を入れた翻訳調の読みはこんな風ですが…




官を辞してからも毎朝
天下の動静を易で読みとることと
以前どおり歴史の本を開いて
数行をすくい取るように読む習慣は変わらぬ。
(何時なんどきでも祖国の危機には
      老骨でも剣を取って馳せつけるのが
     陸游の気概なのだ)

花どきに花が咲けば、

いささかは酒杯をとって花見酒をたしなみ

老人らしく昼寝はするものの

睡りより起きれば
独り香を焚きしめて居住いを正し
精神を統一する。

此処は静かで街中のように

物の売り買いの人声や物音がせず、
物に動じないかのように
村の一日はゆっくりとすぎていく。

わたしの身は衰えてはいるが

先々のことは何の心配もない、
妻や子供たちは畑仕事や
家事万端がもう身に着いているのだ。


雲母屏風。
雲屏。雲母(きらら)で作られた屏風なのか
雲母片をまき散らしたきらめく屏風なのか

燭影。
影をどう解するか。燭影=燭光
あるいは蝋燭の光がつくりだす色濃い影か。
別に雲母を透過してくる蝋燭の輝きという解釈も。

長河。
銀河が夜空に長大な流れとして架かる姿を言う。

暁星。
明けの明星とも夜明けをむかえた星とも解される。
文脈的には夜明けの空に消え残っている星を指しているだろう。

嫦娥霊薬を偸む。
太陽を射た羿の妻であった嫦娥は夫が西王母にもらった不死の仙薬を偸み飲んで月へ昇ったという。


碧海。
紺碧の海。青海原。イメージとしては青天、青空とでひとつの世界をつくっている。




雲母を蒔いてきらめきを与えられている
凝った屏風のくっきりしていた陰は
蝋燭の輝きによるものだが時がたち…
夜の空にかかる銀河も西に傾き落ちんばかり
消え残る星が見える空はもう明るんでいる
眠れない夜がまた明けたのだ
嫦娥はきっと悔いているだろう
霊薬を偸み飲んだことを
広いばかりの紺碧の海
果てしなく続く空の青さに浮かぶ月に居て
独りで過ごす夜という夜を想って


川合康三氏はこの詩を眠られぬ夜を明かした羿が
同じように孤独な夜を過ごす他ない妻の嫦娥を想う姿を描くと解釈している。
面白い解釈だと思う。
単純に閨怨詩の一種として解するのでは面白くないのは確かだ。


ただこの詩が
時間の経過を表現しながらそのことで
経過するものの背後に碧海と青天と月の永遠性があることを示唆する
表現の技巧があることを忘れないようにしたい。


透明感のある美しい詩句が李商隠という男を語っているように思う。






006 登鸛鶴樓  王之渙

登鸛鶴樓                       王之渙 
dēng guàn què lóu              Wáng zhī huàn

白日依山盡     Bái rì yī shān jǐn
黃河入海流     Huáng hé rù hǎi liú
欲窮千里目     Yù qióng qiān lǐ mù
更上一層樓     Gèng shàng yī céng lóu

白日 山に依って盡き
黄河 海に入って流る
千里の目を 窮めんと欲して
更に一層 楼を上る 

白日:青山 白と青 太陽と山

黄河:海 黄と碧   河と海

と同時に

対句としての対照は

白日:黄河 山:海 依:入 尽:流

窮目:上楼 千里:一層

太陽は永遠の輝きを山の端で ようやく薄れさせる
黄河は滔々と海に入っても流れつづける
天地のこのありさまを一望のもとにしようと
わたしはさらに一層 この楼をのぼる



気宇壮大な天地をわしづかみにするような詩句で

雄渾に楼閣からの俯瞰経験を表現している。