思君恩  令狐楚


010思君恩  令狐楚

小苑 鶯歌 歇  2 2 1
長門 蝶舞   2 2 1 
眼看 春 又去  2 1 2
翠輦 不 曾  2 1 2  押韻は

小苑  鴬歌(おうか) 歇(や)み 
長門  蝶舞(ちょうぶ) 多し
眼(ま)のあたりに看る 春また去るを
翠輦(すいれん)    曾て過(よ)ぎらず

小苑、長門は漢代の宮廷の情景。
輦は天子を意味する。
車駕と言うのと同じ表現のかたち。

鴬と蝶は春と女性と宮廷の遊楽を含意しているに違いない。
鴬の歌と蝶の舞いは一対のイメージだ。
去と過という字も含蓄の多い使われ方がされていると感じる。

春たけなわには小苑に鳴き競っていた鴬の声が歇んでしまった。
それなのに長門では静けさの中にたくさんの蝶が舞い続ける。
みすみす春はまたも去ってしまった。(失われて戻らないものへの憶い)
そしてここへは
天子)はいちども立ち寄らないままだ。(成就することのないものへの想い)

音声の欠如、或いは終焉。失われる春の奢り。
視覚の過剰。或いは永続。失われた春の残像。
表面にはいのちの爛熟。内奥には死の顕現。

眼看春又去。
春はまたもや目の前で為す術もなく去るのか。そうだ去ったのだ。
「まのあたりに」「みすみす」などと読むにしても、眼と看とをしっかりと受けたい。

去るは自分の位置から離れ去る動きをとらえた言葉だ。
離反を含意できる。
見守っていても去ってしまうという実感を指示しているはずだ。

去りぬと 不曾過(曾て過ぎらず)と
その対比も重要な意味がある。

又は繰り返し、反復を
偶有性と揺らぎを
想起させる作用をもっている。

不(曾過)とは
「曾て過ぎったことなど一度もない」という
不能性、不通性を
不完了で投げ出されている
流れない時間を
そしてそれ故の無主の空間を
想起させている。

此処にあるのは
李商隠にも色濃い独特の時空感覚だ。
退廃とそれを言って差し支えないだろうが
それだけでは済ませないものが潜んでいると感じる。

晩唐の時代精神。知識人のもつ内面の深さが思われる。
そういう物が姿を覗かせているから
単純にこの詩を春怨の詩とか閨怨の詩とすることは
あまりにも単純な理解だというそしりを受けるだろう。
李白などの閨怨詩と比べればすぐに気づくことだから。

君恩を思うという題が内容から逆に規定を受けている感じがある。
当時の牛李の党争の渦中に居た作者を考えれば
又別の暗喩などをも考えてゆくべきなのかも知れないが
それは他の機会にゆずろう。