千家詩 0004

大道直如髪   大道 直きこと髪の如く 
春日佳氣多   春日 佳気多し
五陵貴公子   五陵の貴公子
雙雙嗚玉珂   双双 玉珂を鳴らす 


洛陽道は都洛陽の大通り。
真っ直ぐ長い髪のように伸びている。
春日は佳気多し、とは春の日のうららかであること、
うきうきさせるものが多いこと。
ただ天気がいいというのではない。
佳人を「よきひと」と読むのにおなじ。
五陵は場所。有閑の貴族子弟や遊侠の徒が集まる繁華な場所。
双双は擬音語。玉製の馬具『玉珂』が触れ合って立てる華麗な音である。  

律動は以下のように分節される。

大道|直|如髪
春日|佳気|多
五陵|貴公|子  (貴|公子 と分けるべきか…?)
双双|鳴|玉珂 

詩経のなかに「綢直如髮」という表現がある。
髪と道ではずいぶん違うようにも思えるが、
大道(ひろびろとした道)が長い髪のように真っ直ぐ伸びているのだ。

訂正) 
<長い髪をほどくように真っ直ぐ>ではなく、南北に縦横に伸びている都会の街路の様子を髪の毛がぎっしり纏まっているように密集した直線だととらえて表現しているのだ。「綢直如髮」との古典を踏まえた言い方をしていると思う。都人士(雅な人たち)という古い詩を踏んで今の都を詠うという仕掛け。しかし「髪」という連想はここで効果をもつことは動かないだろう。豊かで真直ぐな髪が女性を連想するということも織り込み済みのはずだから。髪のように真っ直ぐでどこまでも伸び広がっている街への想い。

大道は地、春日は天(時)、貴公子は人、そしてさんさんと鳴る玉の馬具は繁栄を象徴している。 どこか「祝祭性」の感じが漂う詩だ。

日常を切り取るかに見えて実は…多分に「越境」している。
こう解してよいのだろうと思う。

安史の乱が起こる前の太平楽然とした洛陽の風俗を抽象的に
ただ双双と鳴る玉珂に焦点を結んで切り取って見せた詩である。 

その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな 与謝野晶子 

「みだれ髪」 この歌でも具体的な対象は櫛と髪。
二十という時春という時が輝きと色と重さをもっている。 
春と青春をともに掬い上げて残すところのない詩歌ふたつ。


【追記】 
「綢直如髮」について
綢: 繆也。謂枲之十絜,一曰綢繆二義皆與繆同也。 
今人綢繆字不分用然詩都人士單用綢字曰綢直如髮
毛傳以密直釋之。則綢卽稠之叚借也。
从糸。周聲。直由切。三部。按此二篆疑有譌亂。(説文解字)

<詩経 小雅 都人士2 >
都人士:
彼都人士、臺笠緇撮。
彼君子女、綢直如髮
我不見兮、我心不說。

詩經 小雅 都人士:
「彼君子女,綢直如髮。」
鄭玄˙箋 :
「其情性密緻,操性正直,如髮之本末無隆殺也。」




千家詩 0003



送郭司倉   王昌齡


映門淮水綠   門に映ず  淮水の緑

留騎主人心   
騎を留むる 主人の心

明月隨良掾   明月 良掾に随わんとし

春潮夜夜深   
春潮 夜夜に深し

郭司倉を送る    王昌齢

秦淮流れ 水面の緑が門辺に映えている
旅びとの乗る駒を留める主人(わたし)の心は…
やがて月も昇り良掾(良い属官を得て任地へ赴く貴方)に随って行くかのよう
春の夜の水辺に満月近い月の昇るたび潮は深々と寄せてくる

この詩のリズムは
映門|淮水|緑  2:2:1    
留騎|主人|心  2:2:1    
明月|随|良掾  2:1:2    
春潮|夜夜|深  2:2:1    

韻は(平声侵韻)の「心、深」
碧海青天夜夜心(「嫦蛾」 李商隠)という似た詩句もある。

前半は午後乃至夕べ、後半は春宵(春の夜)だ。
そのことが「主人の心」を余さず告げている。

淮水(秦淮河)は長江に注ぐ川で「淮水」の水は川の意味である。
私は、 映ず…緑 という句から「千里鶯啼緑映紅」を連想する。
杜牧は王昌齡より後の人だから無関係だが。
だが江南の春の旅人を取り巻く情景として響きあうものがある。
舟でなく騎馬であることが注意されてよいが、平仄の都合でのことか。
(まだ平仄をあたっていない)


映:留は句の頭に置かれた動詞。
随は真ん中に置かれた動詞。
深は春潮を受けているが「夜夜に」と修飾されていることから
本当は「深くなる」「深くなっている」という動詞だろう。
しかし「春深し」の感覚をともなって春潮夜夜に深しと読むことが許されてよいと思う。

別れ難くて留めただけではない。
月の出を待って満潮時に舟で発つのがよいのだから。


そして明月である、夜道を辿れるのである、
馬は船寄せ場までの乗り物なのに違いない。



別れを惜しむ二人のこころは
春の潮のように深くなり続けて
止みがたい高まりとなっているのである。


春がたっぷりと迫ってくる様子が感じられる。
 

千家詩 0002

洛陽訪袁拾遺不遇    孟浩然
洛陽訪才子      
洛陽に才子を訪えば
江嶺作流人      江嶺流人と作れり
聞説梅花早      聞く説(な)らく 梅花 早しと
何如此地春      何ぞこの地の春に如かん



この時代は二都制で洛陽は副都だったそうだ。
洛陽にいる友人を訪ねると不在だという。
相手を「才子」だとする。飲酒歓談を期して訪ねたのだろうか。
ところが江嶺というところへ流人(るにん)となったというのだ。
流人といっても僻地勤務で罰の意味も無論あるが囚人ではないのだ。
「飛ばされた」という現代語の語感に通じる。
聞くところによるとそちらは梅花の開くのが早いとか、
いやいや春が早いといったって
都の春には及ぶものではないだろうに…


自らも不遇な生涯だったという孟浩然、友人の左遷を同情しきりといった詩だ。
春愁という言葉もあるが、それは悩ましい愁いばかりではない。

ちょうど今のように
国を憂え、楽観的になれない愁いもある。
親しい者と過す春こそすばらしいのだ。
友の居ない春。自分の居ない友人の春。
季節は春でもそれは寂しく愁いに満ちた春なのだ。


0002 千家詩

千家詩 0001

春眠  (春暁)     孟浩然   唐詩三百首232番目では春暁


春眠不覺曉     春眠 曉を覺えず
處處聞啼鳥     處處 啼鳥を聞く
夜來風雨聲     夜來 風雨の聲
花落知多少     花落つるを知る 多少ぞ


春晓   孟浩然 : meng hao ran 五言绝句

春眠不觉晓   chun1 mian2 bu jue2 xiao3
处处闻啼鸟   chu3 chu3 wen3 ti2 niao3
夜来风雨声   ye4 lai2 feng1 yu3 sheng3
花落知多少   hua1 luo4 zhi1 duo1 shao3
 



四句目以外はやさしい。


覚は覚るという感じだ。暁、夜が明けたことにも気づかないという(不覚)
不覚にも眠り続けていたら…
処処は「ところどころ」ではなく「いたるところ」「あっちでもこっちでも」
時々刻々が時間においての偏在。処処は空間においての偏在の表示。
鳥が啼くのが聞こえてきた。「聞こえる」と「聴く」は違う。耳傾けるのが聴。
むこうからくるのが聞。聞香も本当は漂いくる香りのはずだが。嗅ぐのが意識的なのだ。
啼鳥は囀る声だろう。そうするとここには声が隠れている。次句の声と並ぶ。
こことつぎの句とでひとつと考えると、聞くの対象は現在と過去の二つの声となり、
対比が生じる。
あちこちから同時多発的に聞こえくる鳥の啼く声。
時系列的に夜来(夜中ずっと、夜っぴて)激しく打ちつづけた風雨の声。


いったい花はどれほど落ちたのだろうか。
「多少ぞ」は軽い疑問。多いことを予想できるので。


この詩には春眠と花落が対照している。不覚(おぼえず)と知(…と知る)は知覚だ。
春なのに不覚にして眠りこけ、花を楽しもうにも花はもう落ちてしまっているらしい…


上に言ったように処処と夜来の対照。時間と空間。過去と現在の物音=声(風雨と鳥)。
いくつかのコードで織り成された詩だが、


不遇の詩人らしい「取り残された者の心意」が満ちた詩ゆえのインパクトを感じる。
ルサンチマンというのとは違うかもしれないが。


よく体験する風雨の後の落花狼藉をこのように歌い得た詩人の感性の底には
しどけないだけではない強かな詩心を見ることも可能だろう。

千家詩 0001