千家詩 0001

春眠  (春暁)     孟浩然   唐詩三百首232番目では春暁


春眠不覺曉     春眠 曉を覺えず
處處聞啼鳥     處處 啼鳥を聞く
夜來風雨聲     夜來 風雨の聲
花落知多少     花落つるを知る 多少ぞ


春晓   孟浩然 : meng hao ran 五言绝句

春眠不觉晓   chun1 mian2 bu jue2 xiao3
处处闻啼鸟   chu3 chu3 wen3 ti2 niao3
夜来风雨声   ye4 lai2 feng1 yu3 sheng3
花落知多少   hua1 luo4 zhi1 duo1 shao3
 



四句目以外はやさしい。


覚は覚るという感じだ。暁、夜が明けたことにも気づかないという(不覚)
不覚にも眠り続けていたら…
処処は「ところどころ」ではなく「いたるところ」「あっちでもこっちでも」
時々刻々が時間においての偏在。処処は空間においての偏在の表示。
鳥が啼くのが聞こえてきた。「聞こえる」と「聴く」は違う。耳傾けるのが聴。
むこうからくるのが聞。聞香も本当は漂いくる香りのはずだが。嗅ぐのが意識的なのだ。
啼鳥は囀る声だろう。そうするとここには声が隠れている。次句の声と並ぶ。
こことつぎの句とでひとつと考えると、聞くの対象は現在と過去の二つの声となり、
対比が生じる。
あちこちから同時多発的に聞こえくる鳥の啼く声。
時系列的に夜来(夜中ずっと、夜っぴて)激しく打ちつづけた風雨の声。


いったい花はどれほど落ちたのだろうか。
「多少ぞ」は軽い疑問。多いことを予想できるので。


この詩には春眠と花落が対照している。不覚(おぼえず)と知(…と知る)は知覚だ。
春なのに不覚にして眠りこけ、花を楽しもうにも花はもう落ちてしまっているらしい…


上に言ったように処処と夜来の対照。時間と空間。過去と現在の物音=声(風雨と鳥)。
いくつかのコードで織り成された詩だが、


不遇の詩人らしい「取り残された者の心意」が満ちた詩ゆえのインパクトを感じる。
ルサンチマンというのとは違うかもしれないが。


よく体験する風雨の後の落花狼藉をこのように歌い得た詩人の感性の底には
しどけないだけではない強かな詩心を見ることも可能だろう。

千家詩 0001