唐詩三百首 002 感遇 其二 張九齡

感遇  その二  張九齡 

蘭葉春葳蕤     蘭葉 春に葳蕤(いすい)たり
桂華秋皎潔     桂花 秋に皎潔(こうけつ)たり
欣欣此生意     欣欣として 此(ここ)に生意あり
自爾為佳節     自爾(おのず)から佳節を為す
誰知林棲者     誰か知るや 林棲の者 
聞風坐相悅     風を聞きて坐に相(あい)悦ぶを
草木有本心     草木に 本心有り
何求美人折     何ぞ美人の折るを求めん

蘭の葉と桂花を対比的に持ち出しているが
ここで葳蕤という言葉が表している蘭の状態は
どんなものか?
各書とも生い茂る様子ということになっている。
ここは「草木垂れる貌」という注記をとるべきだろう。
無論、豊かに茂っているからこそなのだが。
のびのびと曲線を描いて優美に垂れる形貌に
中国人は生命を感じる。それを葳蕤というのだ。
皎潔は白々と目立つことのようだ。
蘭と桂(木犀)を春と秋の代表として示し
蘭の葉の優美、桂花の目立つ白さを対比している。

自爾は自然と同じと取りたい。二つで「おのずから」と読む。
爾は「しかり」の意味をもつ。
草木が欣快な様子でそのいのちを現す(生意)ことで
自然な季節の移ろいの美がある。
それが欣欣としての佳節をなすということだ。

そうした自然の佇まいのなかにある林棲の者の思い。
それは自然のあり方と重なっている。そして
それに自足している。余所に向かいはしない。
誰もそれに気づかないだろうが。
草木の本心(本来もつ志)こそ隠棲者の心なのだ。
わざわざ野の花は美人に折られたいと願いはしない。

野生の美の価値を謳いあげながら高潔な生き方をもつ
自らの生き方をそれとなく主張する詩といえるだろう。
しかし、私はわざとらしさと感じるところがあり
高潔を感じない。直裁に不満を言う詩のほうに惹かれる。

吹いてくる風に身体を弄らせながら悦んでいる、
それだけで良いではないか。
風の声を聞く人は
人間の声を聞く人ではもはやないはずのもの。
不遇の意識に潜む弱さが書かせた詩という印象が私にはある。